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 盲人と文字  -漢点字の世界-
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1、点字の誕生

「大東亜戦争」は完敗で、ミズリー艦上における重光大使の姿を昨日のことのように思い出す。とにかく飯を食わなければならない。あれやこれやと、どうにか戦後を生き抜いてきたが、あの時代を思うと寒気がする。昭和24年の暮、先輩の紹介で、農学校だと聞いて行ってみたら盲学校であった。紙や鉛筆のなかった時代で。職員室のド真ん中で、
「ここは盲学校ですか」
 周辺の盲教育に従事している盲人の先生たちが驚きの目を、いや耳を私の方に向けた。
 日本の盲学校は不思議なところである。収容されている生徒は盲人だけではない。約半数は弱視の生徒である。教室には黒板が設置され、教師はそれを使いながら教育を進めている。そんな時、目の見えない盲人はただなすこともなく、無為の時間をすごしている。盲学校とは名前だけで、実質は弱視学校である。校内を一巡したが、弱視の生徒が本に目を近づけて点字の本を読んでいる。
「点字は鼻の先でも読むのですか」
 そのころは弱視の生徒も、本だけは点字の本を使っていた。古い卒業生で視力を持ちながら活字を読めない人がいるのには驚いた。現在では堂々と活字の教科書が使われ、リハビリテーション科の生徒は細字の専門書を読んでいる。
 盲人で自分たちで読める文字を持ちたいという願望は昔からあった。西暦一世紀の初め、ヨーロッパでは象牙や金属板に書かれた凹刻文字を盲人が指先で読んだという記録がある。凹刻文字であるため読みにくいのは当然だがそのころから盲人の文字に対する憧れというようなものがあったのだ。しかしその後は全世界は戦乱に明け暮れし、十六世紀に入ってようやくスペインで木片に刻印された触読用文字が発表されている。いずれも凹刻文字であったが、触読に耐えると報告されている。十七世紀に入って英国では長い紐に結び目を作り、その間隔で簡単な記録をするという方法が考えられたが、これはむしろ例外的な方法であった。十七世紀の中ごろ、平板に蝋を流し、その上に鉄筆で字を書き、それを読むという方法が開発された。いずれも凹刻文字であったが、一応読めたようである。そのころから凸刻文字の研究が始められている。十七世紀の後半、イタリアでは点と線の組み合わせであるアルファベットが考案され、凸文字として注目を浴びている。この場合、曲線を除外して総て直線にしたのは賢明であった。指先の感覚では曲線の区別が個人によって非常に異なるものがあるからである。現在では活字をそのままの形で浮かび上がらせる装置も開発されているが、読める人は少ないようである。

 そのころ木刻文字、鉛文字といろいろな凸文字が考案され、凸文字全盛時代を迎えた。パリで世界最初の盲学校が設立されたのもそのころで、校長はバランタン・アウイーである。1784年のことで、視力障害者教育の夜明けとして、その意義は大きい。アウイーは独自の凸文字を考案し、書物も出している。またこれを契機に欧州各地で盲学校が設立されている。使用されている文字はいずれも凸文字で、特にウイーン盲学校では地理、数学、音楽などの凸字本が出版されている。
 さて日本である。奈良時代の役所には語部という役職があり、盲御前という盲人がいて、彼らが伝承してきた古来の出来事を記録して『古事記』ができた。日本の歴史は彼らの記憶が基礎になっている。稗田阿礼は盲人であったという説さえある。盲人の記憶力の良さは、江戸時代の盲人学者、塙保己一の『群書類従』を見てもわかる。これは彼の記憶力をうまく整理して作り上げたものである。ある日、突然、行灯の火が消えた。あわてる目明きの弟子を前にして、みごとにいってのけた。
「目明きとは不自由なものだ」
 これは昔の国語の教科書にも出ていて、子供心に強い印象を受けたが、もしこの時代に点字があったらと思うと残念である。
 日本でも十九世紀の始め、触読文字の研究が発表されている。ひら仮名や漢字を陶器や瓦の表面に浮かび上がらせ、それを組み合わせて文章まで作っている。当時、葛原勾当という盲人は紙の上に凸文字を浮かび上がらせているが、おそらく陶器の上に浮かび上がらせた文字を紙の上に転写したのであろう。ここで注目したいのは、日本では漢字という大変複雑な字形を持った文字が存在していることである。しかもその漢字が、日本文の主体を成しているのだから大変である。
 盲人の文字に対する挑戦は、用の東西を問わず、活字をそのままの形で表現しようとしたものであった。ところがここに字形とはまったく関係なく点の配列だけでアルファベットを表現しようという画期的な考えが飛び出してきた。その研究は晴眼者のシャルル・ボアイエである。彼はルイ十六世の砲兵大尉で、夜戦の暗号として夜でも使える秘密文字を考えていた。それが点を組み合わせて作った点字で、視力障害者の文字として脚光を浴びたのである。まさに神の啓示という他はない。夜戦用の文字が盲人用文字として転身したのだから。バルビエ大尉は、彼の作った点字を盲人用文字として、1807年に論文を発表している。しかし世の中はまだ凸文字時代で、ただ参考意見に過ぎなかった。

 当時パリ訓盲院にルイ・ブライユという少年が在学していた。パリ郊外のグーブレ村の生まれで、幼少のころ小刀で目を突き失明した。バルビエの点字を知り、その改良を申し入れたが許可されず、単独で研究を進めた結果、六点点字を完成した。しかし世界はこの六点点字を容認せず、彼は不遇の中で一生を終えている。六点点字が世界に公認されたのは、彼の死後二年目のことである。ここにルイ・ブライユの小伝を記し、彼の功績をたたえたい。
 私はそのころルイ・ブライユの生涯について、改めて考えさせられることが多かった。それは私がその数年間、1820年代のブライユのように、点の配列の中に埋もれていたばかりでなく、当時彼が置かれた立場と同じような状況が、1970年代の私の周辺に渦巻いていたからである。(当時私は漢点字なるものを発表したが、周辺の状況はブライユ時代とまったく同様であった)。
 ブライユの伝記はいろいろあるが、残念ながら精彩な資料となるとほとんどない。なにぶん彼の書いた文書は、すべて当時は公認されていなかった「彼だけの文字」で書かれていたため、彼の死とともに数片の手紙を除いてすべて喪失されたからである。したがって彼の43年にわたる人間性の記述は、後世の伝記編集者の憶測が多分に入り交じって、二面的な人物像を描き出している。
 その代表的なものは、アメリカのアルビンが書いたもので、彼はその中でブライユとボアイエの出会いを次のように書いている。
「パリのあるカフェで、ブライユは友人の読んでくれる新聞を聞いていた。と、その中に、ボアイエ砲兵大尉が、暗やみの中で読める点の文字を考案したことが報じられていた。ブライユの頭に霊感がひらめき、思わず大声を上げてテーブルをたたいた」
 これはブライユの生涯を劇的に展開しようとする筆者の、あまりにもたくましい想像力に過ぎない。彼はまた、こうも書いている。
「敬意をもって、ブライユの人柄と功績を称えたい」
 一方、ブライユが所属している盲学校の教授は、その著書の中で次のように書いている。
「ブライユの生涯は、彼を有名にしている点字を除けば、興味はない」
 アルビンも教授も、点字創案の功績をたたえながらも、その人間性について、なぜこうも極端な開きを見せるのであろうか。私は150年の歳月を経た現在、今なお洋の東西を問わず残存している盲人に対する同情論と軽視論の両端を、彼らの中に見るような気がする。これでは、人間としてのブライユの偉さに迫ることはとうていできない。ブライユは「涙をもって称えられる」ような弱者でもなかったし「興味がない」と片づけられるような凡人でもなかった。それでは彼は、どんな人物であったであろうか。
 たしかにブライユに関する資料は少ない。しかし彼は今なお「自分の言葉」で私たちに話しかけていることを忘れてはならない。その言葉を聞かずして彼を語ることは、盲人の表面の不活発性のみを見て、内部に蔵される活力を無視する結果になる。彼が今なお語り続けている言葉とは、彼が定めた六つの点の配列である。われわれは完成された点字を見て、安易な評価におちいりやすいが、その配列に至る道程の中に、彼の強じんな人物像を読み取ることができる。

 彼がバルビエの「夜の文字」から現在の「盲人文字」を完成するまでに、数年の月日を費やしている。長い追究である。今でこそ、それぞれの点は、それぞれの位置を確保しているが、その位置に定着するまでは、ブライユの指先はどれほどその周辺を動き回ったことであろうか。彼の死後ようやくにして認められ、現在全世界の盲人に文化の光を投げかけている六点点字を見ていると、点と点の間に彼の強じんな意志が、切実な言葉になって話しかけてくる。
 ブライユが点字の原形を決定したのは少年期である。数学の得意な彼は、点の組み合わせに理論的な基盤を与えた。ここで彼が定めたアルファベットを示すが、まずは点の原形から話を始めよう。
 点字は三つの点が二行に並んでいて、これを一マスといい、これで一字が形成されている。点には番号がついていて、左上から一の点、二の点、三の点、右上に移り四の点、五の点、六の点と呼んでいる。
「案ずるより生むが易し」点字の誕生は彼の数理的な頭脳をもってすれば容易なことであったが、それでも数年の月日をかけている。ここに彼が定めた、そして今でも使われているアルファベットを示しておこう。


〈第一類〉

〈第二類〉

〈第三類〉

 これを決定したのはルイ・ブライユ16歳の時であった。しかし生まれた子の行く末には複雑な人生行路が待っていたのである。内憂外患、ブライユは強じんな意志をもって内面的な不安に打ち勝ちつつ、外面的な圧力に抗して、六点点字を育て上げていったのである。

 彼は長ずるに及んで、少年期に決定した六点点字の配列に疑義と不安を感ずることもあった。そのような不安は、理論的に物事を処理しようとする人ほど強いものである。このような内面的な不安は、かつてミケロ・アンジェロが、彼の情熱を傾けて作ったピエタに対して失望を感じたのに似ていて、実に人間的な苦悩であった。しかしブライユは、多くの芸術家が未完成のまま創作を打ち切るようなことはしなかった。
 点の配列の完全性を追求するブライユの不安をさらに刺激するものがあった。それはバルビエや友人ゴーシュの別の方式の点字であった。ブライユが自分の点字に対して、幾たびとなく失望を感じたことはいうまでもない。そしてさらにこれに拍車をかけたのが病魔であった。もし彼に強じんな精神力と不屈の闘志がなかったら。そして彼を支えてくれた生徒たちとの友愛がなかったら、点字創設者としての不朽の名声は、ルイ・ブライユのものにはならなかったであろう。
 彼は少年期に作った点の配列から離れることなく、実験教育を繰り返した。彼は「六点方式であれば、どんな点の配列であっても、それが読みと結合すれば、盲人の文字として完全に通用する」ことを確信していた。この確信は長期にわたる実験教育の成果であって、師弟の間の友愛の中から生まれた素晴らしい結論である。
 彼はウイーン盲学校の創立者クラインに次のような手紙を送っている。
「私のささやかなこの案が、私と運命をともにするあなたの生徒さんたちに、お役に立つことを信じます」
 しかしクラインはブライユの点字を認めなかったばかりでなく、オーストリアはブライユ方式を採用することを極力妨害した。またパリ盲学校校長は次のような宣言をした。
「一般人に通用しない盲人だけの文字は、認めるわけにはゆかない。今後、点字の教育、普及は禁止する」
 後日私が漢点字を発表したときも、これと同じ批判を受けた。
 さらにもう一つの圧力は、夜間訓練用の点字を盲学校に紹介したバルビエ大尉である。彼は自分の点字方式をあくまで優秀なものとして引き下がらなかった。「若造に何ができる」といった気負いがあったのかも知れないが、根本には盲人軽視の思想が読みとれる。
 ブライユはあらゆる圧力に確固たる信念をもって戦った。それを支持したのが、盲学校の生徒たちである。学校教育の表面から姿を消した六点点字が着実に彼らの中に浸透していった。もしブライユに権力に屈しない、冷笑に耐える強烈な精神がなかったら、盲人の夜明けはさらに後年になったであろう。ルイ・ブライユの偉大さは、点字の創設者というより、むしろこの教育にあったように思う。
 1852年、パリは寒波の中に新しい年を迎えた。ブライユはすでに退職していた盲学校の病室に、疲れ切った病身を横たえていた。彼を敬愛する同僚や生徒たちが、この一室を提供したのだ。1月6日、夕陽がブローニュの森に沈もうとするころ、朝からの苦痛から解放されたように、ブライユの顔には安らかな微笑が浮かんでいた。
「窓を開けてください」
 夕べの祈りの鐘がどっと流れ込んできた。ブライユの耳はノートルダム寺院の鐘を初めとして、幾重にも重なってくる鐘の音を聞き分けることができた。その中で、彼が長らくオルガン師を勤めていたラザ・ミニストラ寺院の鐘が一段と高く鳴り渡って静かに夕陽の中に消えていくころ、ブライユの強くて美しい魂は天の神なるもとに召されていった。年齢は43歳であった。
 それから2年、ルイ・ブライユの六点点字は、あたかも地核を破って噴出する火山のように全世界を風靡したのである。


 さて日本である。
 明治11年、日本の盲教育は京都に生まれた。京都府立盲学校の玄関には「日本最古の盲学校」の看板が揚げられている。日本でも活字をそのままの形で凸文字にする方法はすでに考えられていたが、それを指先で読むのは困難であった。したがって盲学校の教育の対象は琴、あんま、鍼の技術指導が中心であった。1890年(明治23年)ルイ・ブライユの六点点字が、日本に入ってきた。いろいろな方面で研究されたが、最終的に東京盲唖学校教師、石川倉次氏の案に統一された。その概要は次の通りである。

(母音文字)


(母音にさらに点を加える)

 また濁音、拗音については、次のように二マスで決定している。例をあげておこう。

 このようにして日本語の点字化は成立したのである。
それから100年、平成2年(1990年)には日本点字制定100周年の記念行事が華々しく開かれた。まさに100年、日本点字は何らの進歩も進化もなく、ただ100年を送ったのである。「速く読め」これが盲教育の唯一の目標であった。「速読みテスト」なるものが全国に流行している。確かに速く読むことは大切ではあるが、速く読むと「そ」と「こ」の読み間違いが出てくるのである。
 日本点字は石川倉次氏のカナ点字の世界の中で、平穏な生活を100年続けてきた。日本文の主体である漢字には、何らの関心も払われぬまま・・・・。

 盲教育がカナ点字だけで100年も続けられてきたことは、まったく不思議という他はない。盲人が学習の対象にしている漢方は中国生まれで、原本はすべて中国語、すなわち漢字で表現されている。弱視者は一応漢字の本を使っているが、盲人はすべてカナ文字だけ。その意味で、盲学校とは名ばかりで、実質は弱視学校であることは前にも述べた通りである。盲人が一番苦手としているのが漢字で、特に同音異義語には苦労している。「貴社の記者が汽車で帰社した」などは、盲学校では禁句に等しい。
 さて今から述べる点字の漢字を、一応漢点字と呼ぶことにする。この漢点字をどのような形式にするか、私は初めから八点法を考えていた。これが指先で読めなかったら、漢点字はあきらめていたかもしれない。
 一の点の上をゼロの点、四の点の上を七の点といっている。この点もいろいろな所において実験した結果定めたものである。理科系の大学を出た私は実験の重要性は充分に理解している。
 面白いことは、この八点法を採用したお陰で、句読点は活字の文章と一致させることができるようになった。これは大きなメリットである、従来のカナ点字ばかりの文章での最大の弱点は、文章の中に多量のマス明け(句読点に相当する)を必要としたことである。これがないと点字ばかりの文章は読めない。カナ点字文の最大の弱点であった。それが活字体の文章と同じ形式になったのだから、その効果は大きい。句読点は文章のリズムである。作家によってそのリズムが違うのは当然で、点字文でも、作家のリズムを取り入れることができるようになった。
 私は戦時中、ある航空機製作所で航空エンジンの研究をしていた。そこで研究とは分析と総合であることを知った。航空機のある部分を研究していた私は、一万回を越える実験によって、その部分の特徴を縦横に分析した。そして重大な欠陥があることを発見した。私は、その改善策を示し、その総合実験を行っている時、戦争は終った。不思議な運命であったが、私は研究とは分析と総合であることを、戦時中に知ったのである。
 そこで漢字の分析から始めた。すべての漢字は基本的な要素の組み立てでできている。基本的な要素を構成素と名づけると、漢字は構成素の集合体である。したがって構成素だけを定めておけば、容易な組み立てることができる。構成素とは辞書の表紙の裏面に書いてある部首が中心になっている。要するに漢字は構成素の集合体である。したがって漢字を構成素を使って、数学の式で示すことさえできる。ここでその例をあげてみる。
 相=木+目
 話=言+(千÷口)
 想=(木+目)÷心

 ところが「恋」という漢字である。昔はこの漢字は大変複雑な形をしていた。字式で示すと
 (糸+言+糸)÷心
 となる「いとし、いとしと言う心」で覚えたものである。ところが現在では「恋」となって、まさに「また心」、テレビドラマの主要なテーマになって、浮気の恋を世間にまき散らしている。
 私は略字「恋」という漢字の中に、漢点字構成の原理があると思った。構成素を省略しても、漢字としての本来の機能を示しているではないか。それならば「話」という漢字の中から「言」と「千」を取り出して漢点字を作っても「話」という漢字になるはずである。これが漢点字構成の原理であって、「二字選択」といっている。
 ここでもう一つ大切なことがある。「苦、枯、固」である。草が古くなると苦くなる。木が古くなると枯れる、物質が古くなると固まる。いずれも「古」という漢字が中心になって生まれた漢字群である。私はこれを「一連文字」といっているが、これが成立するように配慮しなければ、漢字の生命を保つことはできない。故藤堂明保先生が強調されたところである。

 それでは実際の漢点字はどのようにして組み立てられているか、実例をあげて説明してみよう。まずは漢点字の基本になる漢字である。第一基本文字第二基本文字、傍側基本文字の三種類に分かれる。

(1) 第一基本文字

 基本的な構成素となる漢字で、使用頻度の高いものは二字用意している。
 (イ)カナ点字の発音に合わせたもの。


 (ロ)他の字との関係などを考えながら決定したもの


 (ハ)くさかんむり、ぎょうにんべん、しんにょう、のぎへん等のように独立文字になっていないものも、すべて独立文字として取り扱う。

 (ニ)使用頻度の高い構成素は二字用意した。それぞれ漢字を当てはめる

 漢字を分析して作った構成素を総合すると、次のような漢字が生まれる。その数は優に100字は越える。


(2) 第二基本文字

 辞書を見ると、構成素とされる漢字は優に200字を越えている。六点の組み合わせだけでは、どうしてもこれに応ずることはできない。これが構成素で漢点字を組み立てることは不可能だといわれる原因で、中国で生まれた点字は、完全に構成素を無視して、何と英語の発音記号を使っている。しかし構成素は漢字構成の基礎であって、これを無視した点字は、もはや漢字というわけにはゆかない。
 それではどうするか。簡単である。構成素を「統合整理」すればよい。例をあげてみよう。

 と定める。これを使って漢点字を合成する時は、付加した一点を取り除く。事実「うしへん」「ひつじへん」「いのこ」を構成素とする漢字は少ない。すなわち牛、羊、豚は馬に統合整理するのである。私は
を動物偏といっている。
 同様に身体に関係する構成素は次のように定める。

 これを使って漢点字を合成するときは、付加した一点を取り除く。
を偏として身体に関する漢字が生まれる。これを身体偏といっている。

 これも付加した一点を取り除いて合成漢点字を作る。
を偏として偉い人に関する漢字が生まれる。これを王様偏といっている。
 面白いのは次の漢字である。
 
 これも付加した一点を取り除いて合成漢点字を作るが、人間の希望を表わす漢字が生まれる。
を希望偏と勝手に名づけている。
 その他は省略するが、第二基本文字を使って合成漢点字を作るときは、付加した一点を取り除くのである。構成素を統合して次のような漢点字が生まれる。


(3)傍側基本文字

「つくり」になる構成素である。おもに右側につくので、主体を右側におき左側に四の点または五、六の点をおく。


 一応カナ文字の発音に合わすようにしている。傍側基本文字を組み込んで合成漢点字を作る時は、第一マスに付加した一点を除去することは前と同じである。

 また漢字の中には構成素のはっきりしていない字も多い。「上、中、下」のように対照的な意味を持つ漢字や、単位を示す漢字である。これらの漢字を「比較文字」として次のように定める。



 ここに寸を組み込んだ漢点字を示す。比較符号のは取り除いて、二マス構成になっている。

 また漢数字は次のようにして定める。


 また十干も昔の数字として次のように定める。

 以上、合成漢点字を作るときは、基本文字や比較文字の記号を省略するので、字式を示す必要がある。
(村=木+寸)

(時=日+寺)
 常用漢字を始め、よく使う漢点字は二マスで構成したが、漢字の数は膨大である。現在約15、000字の漢点字が完成しているが、どうしても三マスが必要になってくる。その場合、後の二マスが常用漢字になるよう配慮する。

 またこの方法が成立しない場合は、第ニマスに(二・五)の点を入れて構成する。

 最後に漢字の最大の特徴である一連性は、それが成立するように配慮しなければならない。



 かくして現在では漢点字はみごとに整備され、人名、地名漢字も完全にでき上がっている。しかし盲人諸氏の間には、漢字不要論を唱える人もいる。これはカナ点字の世界にあまりに慣れ過ぎ、漢字の有効性を知らないためである。私は日本人の頭の優秀性は、幼少のころからの漢字教育の成果であるまいかと思っている。日本人の名前で、漢字を使わない人はまずあるまい。漢字は日本文の主体となって、日本人の心に強い影響を与えているのである。ただし字形があまりにも複雑で、現在では略字が公認されている。しかし自分の名前は、あくまで旧字を使う人がいるが残念である。どうも日本人には古い伝統を固守して、新しい企画を拒否する性格があるようだ。
 私は漢点字の普及を周辺の人から始めることにした。これはルイ・ブライユの方法に倣ったのである。そのためにはテキストを作らねばならない。漢点字解説(全14巻)には全常用漢点字を紹介し、長い練習問題と書き取りからできている。全巻卒業するには少なくとも一年の歳月は必要で、現在約700名の卒業生を出している。
 ところでこの漢点字の本であるが、完全に時代の流れに乗ることができた。コンピューターの発達と、それを使った自動製版機の出現である。点字を作るには、二枚に折り重ねたビニール板に点をたたき出し、その間に紙をはさんでプレスすると点字ができる。これを製版機といっているが、コンピューターはこれを自動的にやってくれるのである。元大阪大学の末田統先生が開発されたもので、この機械のお陰で、現在約3000冊の漢点字の本が用意されている。
 思えばルイ・ブライユの点字が日本に入ってきてから100年、漢点字は日本盲人の間に確実な足並みで浸透している。
 最後に漢点字を使った文章をあげておこう。



1991年(平成3年) 川上泰一 日本漢点字協会

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